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他人だと損

2010/08/31 20:53
 私,今日電車乗ってたんですけど,隣にちっちゃい子連れた家族が座って,お母さんのひざの上で女の子が暴れるので,私のひざに女の子の靴が当たる。こっちは休日でジーンズだし,そんな泥だらけの靴でもないので大して影響はないのですが,でもそれ,やっぱりすごく不愉快だ。汚れはいい。こっちへの迷惑に対する気遣いがないことが不愉快。

 でも,注意して分かる子供ではないだろうし,もう一人子供を連れている母親に,「しっかりしてくださいよ」と言っても無理だろう。もし私がこの母親だったら,やっぱなすすべもなさそうだ。しかし,だからって私がこの状況を我慢してやらなきゃならんこともないだろう。でもなあ。電車の中で怒鳴り散らしたりなんかした日には,誰に正義があろうがなかろうが,無関係に公共の迷惑に成り下がるからやだ。そもそも,びびって注意なんて出来ない。

 そんなわけで,特に注意はせず,ひざをよけて手で軽く払う,というジェスチャーで,間接的に「ちょっとやです」感を演出してみました。この腰抜けなアピールも母親は感じ取って「すいません」と言ってくれましたが,状況が改善することはなく,その後も子供の足はちょいちょい私のひざに当たるのでした。

 こうした状況に居合わせたりすると,多くの人が「誰が悪いのか」「誰が正しいのか」を判断しようとしたりしませんか。私はそうです。またその中でも特に「自分は悪いか悪くないか」を考え,悪くない立場の人でありたいと思う。まあそれ自体は間違ってないと思いますが,返す刀で「誰が悪いか」を考えると,だいたい悪い方向へ考えが行ってしまう。

 この状況で,誰が悪いかを言うとしたら,子供のことをきちんと見られないのにのこのこお出かけしているこの母親。謝っただけましとはいえその後も改善の見られないこの母親ということになるのかなと思います。子育て大変とは思うけど,と。でも,そういうこと考えてしまうと,その後私はずっと「もっとちゃんと謝ってほしい」とか,「謝ってもぜんぜんその後もこっち迷惑受けてんだけど」といったことを思ってしまうわけです。そんなこと面と向かっていえる度胸もないくせに。

 2chその他のネット上では,こんな感じで,見てもいないどこかの出来事に対して,多くの人が「誰がいい」「誰が悪い」「中でも自分はそれらを見据える立場にいる正しい人」的な感じであれこれ感想を述べたりするわけですが,私もまた,そんな中の一人なのだな,と思う。思うけど,やめられない。言いたくなってしまう。なんでしょうね,その欲求って。自分は正しい人間だ,正しい判断力のある人間だ,ということを,だれかれなくアピールしたいのかしらん。

 話がそれました。まあ多くの人がそうして脳内裁判をすると思うのですが,そういうときの判断って,なかなか実は主観的でしかないんだよなあ,ということを思うのです。

 見ず知らずの親子に迷惑かけられて不愉快になった私ですが,あの親子が私の友人だったら,友人の子供の靴がちっと当たったくらい,まるでどうってことないでしょう。騒ぐ子供にいらいらするかもしれませんが,それは子供自体にいらいらというより,「自分の関係者が世間に迷惑をかけている」ということについてのやきもきになる,気がする。

 殺人や泥棒みたいな話までは別ですが,マナー違反レベルのことについて,自分が不愉快に思うか平気か,ということについては,対象者と自分との関係性がかなり影響する,と,私自身は思っています。世間一般まで責任取れないけど,私はどうしてもそうだなあ。友人が私の家の前でタバコポイ捨てしたときは笑いながら注意したけど,赤の他人がやってたらそれは本気で腹を立ててたと思うもの。

 そんなわけで私は,相手が知人だったら平気で水に流せるようなことでも,赤の他人となったと同時に妥協も寛容も持てないことになる。これって「そういうもん」かもしれないですが,でも情けないな。いや,情けないってこともないことかな。

 でも,そういう状況にあったときに,相手が他人だったから,ということで不愉快を感じたりするとしたら,それは「損」かもしれないなと思う。だって,いちいちめんどくさいやん。どうせ,怒ったって我慢したって,不愉快な気持ちを引きずることには変わりないんだから。

 そんなわけで,今後は電車で不愉快な人を見ても,その人は自分の関係者だと思うことにして気持ちを落ち着けよう。……と思ったけど,さ。すんげーバカが数人で電車内にしゃがみこんで騒いでたら,やっぱ死ねと思うだろうな。知人だったら逃げるな,そんなクズと仲間だと思われたくなくて。なかなかそううまくはいかんもんですわな。
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そこまで偉くないから

2010/08/28 13:08
 日本の接客は素晴らしくて,海外の会社がそれを教わりに来たりする,なんていう話をテレビで見たこともあります。どういう内容であれ日本が模範とされる,ということ自体は,日本人としてちょっと嬉しいようなこともあるのですが,しかしほどほどにしてほしい,とも思ったりして。

 私の通うジムはショッピングモール内にあります。休日の朝イチでそこに行くと,10時にモールが開店して入っていって,ジムは奥まったところにあるのでたくさんの店の前を通り過ぎるのですが,開店時は各店舗の前に店員が立ってお辞儀するというルールになっているらしい。私はあれ,やめてほしい。

 そこのお店で買い物する気なんかさらさらないのに,ご丁寧に挨拶されても,むしろ近寄りたくなくなります。「こんだけお辞儀されているのに見向きもしない自分はなんかひどい奴だろうか」と思ってしまう。かといっていちいちお辞儀し返していたら首がもげてしまうし,しょうがないやと買い物しまくっていたら,いずれ首をくくることになってしまう。

 お店の人が,お客さんをありがたがることは結構と思いますが,なんでもありがたがればいいってもんじゃないし,ましてや私は「通行人」であって客じゃないんだもの。店内に一歩足を入れた時点でお辞儀でいいのに,店の前まで出てきてなんかなあ。さっさと通り過ぎたいのに妙な形でコミュニケーションを求めてこないでほしい。

 お店側だって「そんなやりたくないけど,モール全体のルールがそうなってるからやってる」のだろうし。それ,あんま意味ないよ。

 もうひとつ,居酒屋とかで,店員が膝ついて注文取るのやめてくれまいか。下僕か。サービス合戦か知らないけどどこの誰が考え付いたんだろう。いや,あのほうが注文取る時姿勢が楽で,とかメリットあるんならいいけどさ。

 こういう,「客をいい気分にさせる」ための「マニュアル的なあれこれ」が私はどうも好きになれないのです。私はそんなことしてくれなくても,美味しいものを食べさせてくれたとか,お勧めの服を見つくろってくれたとか,店員を呼びとめるのに緊張しないで済んだとか,そういうことのほうがよっぽどいい気分にさせてくれるので,要するに「妙な尾ひれつけなくていいから仕事をまずかちっとやってください」と思うわけです。その上で,どうしてもお辞儀したり膝つきたい人は好きにすればいい。そんな人おらんでしょうけど。

 私は店員にへりくだりたくはないけれど,「おらぁ客だぞ」には絶対になりたくないし,そういう人と同席することも,場に居合わせることも不快なわけです。なので,お店の側から「どうぞ”おらぁ客だぞ”とふんぞり返ってください」と言わんばかりのことを持ってくるのは,やっぱやめてほしい。海外の人たちも,日本の接客のそこまでの行きすぎは学ばないで帰ってほしいです。
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そこは指摘しないで,知ってるから

2010/08/26 15:12
 こう,誰かと一緒に食事をすることがあったとして,その相手のことを私がすごく尊敬していたり好きだったりしたとしても,茶碗にご飯粒がまだいっぱい付いているのに,それを食べずにに食事を終えたりされると,その人に対してちょっとがっかりする。別にあれこれお説教したいことなんかないんですけど,自分がそう言われて育ってしまっているので,どうしてもそう思う。

 私などはそうなのですが,一方ご飯粒残す人のほうにしてみたら,「人前で食事するときに一粒一粒まで箸でかき取って食べるのは下品」という意識とかがあってのことかもしれないので,まあ価値観って人それぞれなんだろうなあ,私自身がこれは絶対と思っていることでも,ぜんぜんそうじゃないってことがごろごろあるんだろうな,と改めて思うわけです。しかし,それでも「いや,でもやっぱ全部食べてよ」と言いたくなってしまうわけです。私はそんなに柔らかくできてないもんで。

 こういう,「これやられちゃうとがっかり」というのは,一般的なものから「えっそこ?」というようなものまで含めて,皆さん持っているのだろうと思います。そういうの,知りたい。で,私はどのくらい”やらかしている”のかも知りたいところです。「ご飯粒食べる」とか「たばこをポイ捨てしない」とかっていうのは,割とメジャーというかそう思う人が多い事項だと思うのですが,もっとすごいのもあるはず。「正しい神社の参拝の仕方を知らないとがっかり」とか言われると,私ちょっと困ってくるな。

 こうしたことが気になるのは,自分の中に「平均値+アルファのポジションにいたい,何事においても」という気持ちがあるからなのだろうと思います。「そうした中流意識が見えるとちょっと興ざめします」なんて言われたら,私ちょっと立ち上がれないだろうな。図星指されすぎて。
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まず踊らないとなぁ

2010/08/22 09:58
 私の中にある矛盾というか葛藤について。「同じアホなら踊らにゃ損損」という言い分は,あっているなとこのごろ思うようになりました。そしてそれは私にとっていい傾向なのだ,とも思っています。しかし,だからといってすぐアホになれるか,そのエネルギーがあるかと言われるとそれはまた別の問題で,なかなか難しいのです。

 最近サボっていますが通っているジムに「主」っぽいおじいさんがいます。拭けた顔と真っ白なひげのおかげでおじいさんという記号を読み取れますが,首から下に関しては私より若いかもしれない。引き締まってびっちり日に焼けたたくましい身体を,見せ付けるようにタンクトップ着て頭にはタオルかぶって。いつもその人,平日の午後にはジムにいるらしい。らしい,というのは,土曜日の午後いくと必ずいたのですが,先日平日の午後に行ったらやっぱりいたから。

 この人,エアロビのクラスに参加しては,一緒に入った人たちやインストラクターの人たちと仲良く話すことが生きがいらしくて,エアロビのないときでも受付付近にいつもたむろっていて,誰か知り合いが来ると話しかける。そうやってずっと待っています。

 私としては,ジムで友達できたらいいな,通う気にもなるだろうなあという思いがある一方,そのおじいさんを見ているとそうもなりたくないしなあ,という気にもなるのです。ジムで仲間とたくさん話せて,リーダー的存在になれることは楽しいしいいことだと思うのですが,この人家に帰ったらどういう感じなんだろう,ジムがなかったらどうなるんだろうと考えると,なぜか考えが悲しい方向へ行ってしまう。大きなお世話というか失礼なんすけど。

 そんなことを考えたり,面倒くさいなあと思ったりしているうちに,結局ぜんぜんジムで知り合いは出来ず,というか自分からも作ることもなく,今も黙々と通っています。さすがに飽きてきましたし,ちょっと変化が欲しいなあ,といったところです。あのおじいさんのようになりたいかと言われるとうーん,なのですが,アホんなってエアロビで貼り付いた笑顔で踊って,一緒に汗を流した仲間とワッハッハ,ってのは,それはそれで楽しいのだろうなぁ……。

 ここのところとある人とメールのやり取りをしていてつくづく思うのが,私の中に居座る「めんどくさい」という生き物の重さです。私はめんどくさいに相当侵食されている。単にめんどくさがるだけでなく,なんでもかんでもめんどくさい,のせいにして放置したり避けたりしているなあ,と。それはよくないことだ,と思うのですが,そのことを思うことももうめんどくさい。

 私は自他共に認めるめんどくさがりで,旅行に誘われても前日夜に「めんどくさくなったのでパスでお願いします」と言うくらいです。人として間違っている。そこまでめんどくさがりなら,もうそれで進歩もやめて,今なりの自分でもういいです,となってればおとなしいんですが,でも一方で「このままではまずい」という自覚もちょっとあったりするもんだからたち悪い。その自覚があるならなぜ変える方向へ動かないか。いや,ほんと自分でも思います。

 同じアホなら踊らないと損な上に,踊ると結果としてプラスがついてくるというのに。実は帰省の前後から,今までも私のめんどくさいレベルをはるかに超えるめんどくさいの波が襲ってきまして。切符買っちゃったからさすがに帰省はしましたが,一切走らず,運動もしない,もちろん他のなすべきこともしないという期間がしばらく続いていました。昨日久しぶりに走ってみたら,身体がすっかりポンコツに戻っておる。せっかく私なりにがんばって踊ったのに,マイナスのなんと早いことか。人間,死ぬまで踊り続けるしかないのかなあ,もう。
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コンピュータが溶け込んだ生活

2010/08/10 22:16
帰省して2日目。どうしよう早くもすることがなくなってきた。帰省する前は、あちこちジョギングで走ろうと思っていましたが、これに合わせるように今かかとが痛いのです。走り過ぎて打撲、なのだろうか?分かりませんがこれじゃしばらく走れない。

帰省する多くの人がたいていそうなんじゃないかと思いますが、帰省してのんびりさせてもらえるのは全帰省期間の最初4分の1くらい。後はここぞとばかりになんか手伝ってくれ、やってくれの話が舞い込んでくる訳です。幸い私の場合は、パソコン関係が多いのでさほど苦痛でもない。

また、実家にPC環境が整うということは、イコール私の場合は実家における生活環境をよくすることでもあるので、それに関してはむしろどんとこい。今日は無線LAN環境をちゃんとするということで、ルータ買ってきて取り付けました。

やりながら思ったのですが、こういうのって普通の人でもできるもんだろうか。ここでいう「普通の人」というのは、そうだなぁ……「パソコンをする」という言い方をする人。あるいは、Webを見る事を「インターネットをやる」という人、というニュアンスですが。

そういう人だってインターネットやパソコンは必要な事があるし、ワープロ表計算は使う訳なのですが、「ルーター」という存在意義も分からない変な箱をつないであれこれ設定、なんて言われてもできる訳ないだろうと思う。

こういうことに対して、以前は、というか今でも割と、「分からないなら使うな」という意見を持ってはいました。自分もそんな詳しくはないけれど、分からないのに分かる人にあれこれ聞いて、でも結局分からないという悲しさ。そしてそれに付き合わされる分かる人の不毛さ。そういうことを引き起こす必要はないのだから、分からないのに無理して使おうなんて思わずに放っておけばいいのだ。どうしても必要というなら、それは必死で勉強して自分で使いこなしてくださいよ、と。

こうしてみると閉鎖的だ。ともかく今は、そこまで思うよりも「パソコンが家電になってきたのかなあ」と感慨深く思うことのほうが多くなってきました。ルータの設定なんて言いましたけど、実際はつないで電気入れれば、接続だけならできるんですよね。無線LAN設定とかは、私は変なことにされるのが嫌で手動設定してますけど、
今はWPSなる何かで、分からない人でもボタンを押せば安全に暗号化された無線通信が可能らしい。それはすごいことだと思う。

ipodやiPhoneがすごいとされたのは、ネットだのmp3だのという普通の人にとってなんだか分からない、下手に触ると壊れそうで怖いものを、壊れない、いじっても平気なものとして、あるいはいじれるものとして提供したところだと私には思えていて。Macユーザにしてみれば「今頃?」ということだと思うけど、なんだか私はようやくコンピュータが本当に家庭に浸透してきて、ネットが生活に溶け込んだような世の中になってきたのかなあ、と、いちいち思ったりするようになりました。線つないだだけでネットが使えたりするもんだから。

できたら同様に、プリンタとワープロソフトも、なんかわからんけど家電感覚で使えるものになって欲しい。その二つは私の中でも鬼門だから。聞かれると困るんだほんと。
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進歩しないところ

2010/08/08 21:05
夏本番,という言い方はもう手遅れでした。7月からもうやったら暑い。で,この時期ってお中元だなんだでゼリーとか水ようかんとかもらうじゃないですか。私はゼリーもらえるような偉い人じゃないんですが,職場に来たお中元をおすそわけでもらったりします。


 ああいうゼリーって,開けるときすごく緊張します。しません?大抵が充填しているのか分かりませんが,ふたのフィルムぎりぎりまでゼリーじゃないですか。しかも,お中元の高いやつなのですごくみずみずしくて,果汁もみっちり入ってたりするじゃないですか。あれ,開けるときに勢いよくやると汁がこぼれたりして。ほっとくとねちゃねちゃしてものすごく不愉快です。


 その不愉快を避けたい。そう思って慎重に慎重にはがしていく……すると,ちょっとだけふたが開いた後同時にちゅーっと汁が飛び出したりしてむしろ逆効果。そんなことが怖くて,家でゼリー食べるときは大体私流しで食べてます。メロンも一緒。どっかに汁がついてねちゃねちゃするのが嫌だ。


 技術が進歩して片手で収まるネット端末を持ち歩くような時代になっても,私はゼリーのふた一つ安心して開けられやしない。進歩って何だろう。技術の進歩?それとも私の手先の進歩の問題?



 もうひとつ,しょうゆとかソースの小袋。私はいつまでたってもだめなんです。今は技術も進歩し「こちら側のどこからでも切れます」の実装もされているというのに。これもまた,勢いよくビッと袋を破った結果,醤油が飛び散って服にしみ,という状況になるのが怖いのです。


 また,袋の上はじ,角の部分をスッと切った状態にして,そこからしょうゆを流したい。袋が真っ二つみたいになって,しょうゆがびやーっとなったら嫌だ。できるだけ細い注ぎ口にして,ちくわの磯辺揚げにはまんべんなくしょうゆをいきわたらせたい。なので,私はいつも慎重に慎重を重ね,上はじの角を少しだけ切れるように持っていきます。


 結果,ふちの部分を切り取る感じになって,肝心のしょうゆは出てこないことになる。そんなことが私はしょっちゅうです。そしてこの袋は「こちら側のどこからでも切れるわけではない」袋だったため,もうどうしようもなくなり結局ハサミで切るということも。それも,ハサミにしょうゆがついて錆びる気がするからやりたくないのです,本当は。はやぶさが地球に帰ってくるほど技術が進歩したって,私はしょうゆの小袋すら満足に開けられやしないんだ。

分かってます。私が不器用だから悪いんだ。世間の普通の人達はこれで不便を感じることなくやっていけているから、こっち方面についての便利の追求が止まっている,のだと思う。でも,私は悲しい。手の中に収まるネット端末でブログ更新できるようになったって,私はしょうゆの小袋を開けられなければ,水ようかんの汁を服につけてしょんぼりするような時代を過ごしていることに代わりはないのだもの。

ちょいちょいTOTOBIG買うのですが,6億円当たったらまずしょうゆの小袋を改善することに投資しよう。今決めた。
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その機械はだめだ

2010/08/03 12:30
 他人を攻撃すると勝ちで思いやったら負けなのか。やだなまったく。でも私もそんなもんか。


 以前から思っていることですが,私は機械に強いほうの人間なんじゃないかと自分でも思っているものの,だからといってなんでも強いわけじゃない。その辺が本当に機械に弱い人にはあまり分からなくてときどき難儀します。

 PCは好きです。得意と言ってもいいです。なのでPCに弱い人にセットアップを頼まれると喜んで手伝いに行きます。しかし,そこから発展して「プリンタが分からない」とか「コピー機の設定」になってくると,私はからきし分からない。

 PCを始めよう,という人の大きな理由として「年賀状」がどうしても上がってくる。そのため,プリンタの接続やはがきへの印刷,インクジェット用の写真画質の用紙?そういったいろいろなことが必要になってくるらしい。そこは分かるのですが,私自身はというと。年賀状は出さないし,家でもコミックをばらして電子化してるくらいです。プリンタをほぼ使わない生活をしているので,PCと接続するところまでくらいは分かりますが,個々のプリンタごとの設定画面とか,年賀状ソフトの使い方まで行くと,もう私には無理。

 コピー機に至ってはぜんぜん別物です。せめてキーボードとマウスつけてOSをwindowsにしてくれないと無理。あの限られたボタンをうまく操作していろんなメニューをちっちゃこい画面に入れ替わり立ち替わり出しながら,聞いたこともない設定の項目を見ていっても,正直全然分からない。まして紙詰まりなどは,もはや分解修理のレベルでしょうあれは。機械に強いと分かるとかそういう問題じゃないです,と,私は思ってます。

 「知っている」からこそ知らないことが分かるというか。免許持たない人からしてみたら,普通自動車運転できるんなら,ちょっとがんばればショベルカー運転できるでしょ,と言われても,それは無理ですよということなのですが,そこをなかなかうまく説明できない。

 正直なところ,「自分で使うんだから自分で勉強して覚えなさいよ」と言いたくなることもあるのですが,まあそれぞれに事情があるものなあ。大げさですが,今や社会全体がパソコンなしでは動かないほどパソコンが普及していて,私はそれのおかげでいろいろ助かってる(字が苦手とか)。私自身は積極的にそれに乗っかっていったほうです。一方,パソコンが不得意なのにもかかわらず,やむを得ずパソコンを使うので教えてくれという人がいる。この人たちはある意味被害者みたいなもんでもあると考えると,多少はお手伝いしなければ悪いような気もちょっとしたりして。それによって私自身の便利さ(PCを使うのが当たり前という状態)も保持されるわけだし。

 でも,悪いけどここはお願いしたいな。聞かれた私が「分からない」というからには,もうあとは他をあたってください。そしてプリンタとコピー機のことは他の誰かに聞いてください。
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invisible-runner 2010年8月のブログ記事/BIGLOBEウェブリブログ
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