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ずっと以前,友人と死刑の是非について話したことがあります。私は自分の家の事情(別に誰かが殺されたとかではない)から,どうしようもなく死刑を認めるしかないときがある,といった感情論。友人は,「人間が人間に与える刑罰は,人間の更正を促すものであるべきで,死刑はそれを放棄するものだから」という論拠だったのを今でも思い出したりします。そして,理屈の世界に感情を持ち込んでも,その逆をしても,その内容が重大なものであるほど折り合いのつけようがないこと,死刑というのはどうしても理屈と感情を組み合わせなければならない案件だからこそどうしても結論が出ないのだなあ,などと思ったものです。 人間がやる悪いことを,人間によって直す,よくするという試みがあるとして,ダメな人間を死刑にする,殺すということは,人間による自浄能力の限界を認める,ということになるのかもしれない,と思ったりします。それが悪いのか?と言われるとよく分からないし,社会にとってはダメな人間を殺していく,ということも自浄作用だと言えるのかもしれません。 また,人権とは何だろう,とも思います。チベットの騒乱について,おそらくWebで情報を得たほとんどの人が,オリンピックの妨害活動の是非を別としても,中国という国の人権だとか自由のなさっぷりに憤りを感じたり,憂えたりしたと思います。そして,日本には民主主義に基づく自由が(それなりに)根付いていて,人々もまっとうな人権意識を持っていて良かった,と思ったかもしれません。が,どうも先進国で死刑を認めている国は少ないそうです。死刑廃止が前提となっている国の人たちからみて,日本と中国は同じ「人権という観点でダメな国」なんだろうか。私は人権という観点でOKな人間だろうか,ダメだろうか。 で,光市の事件に関する判決について,多くの人がこの判決を支持したろうと思います。いや,ニュースでみましたが,「えっ,そこまで??」と驚くほど,被告側の主張をばっさり斬り捨てたばかりか,その主張こそが悪かったと断じるなどは,時代劇のような明快な判決です。しかし,じっぽさんの書かれているように,これで時代劇を見終わった後のように「スッキリ」とは到底行かず,もっと重い何かを心に持ってしまった人も多いのではないでしょうか。 すでに例に挙げている人も多いようですが,「デッドマン・ウォーキング」という映画のことが思い出されます。今回のことで興味を持ち,これから見る人もいるかもしれないので多くは触れませんが,この映画は死刑に関する多くの問題を提示していて,中でも私が一番印象的で,難しく重いことだ,と思ったのは,死刑の後の遺族の感情をどうしたらいいのか,というものでした(死刑の是非を論じた映画だ,とは私は思いませんでしたが。人間が罪と向き合うとはどういうことか,という映画だと思いました)。 この映画が題材としている「死刑」に関わらず,なんというか,どうにも収まりのつかない,どうしようもない,でも理不尽としか思えない,そういう場面というのがよくあります。生まれながらの難病を抱えた子を育てなくてはならないとか,えー,多分他にもいろいろ。そういう時人間ができることってなんだろうなぁ。「祈る」というのがありますが,それは本当に解決を導いてくれるものなのだろうか。仮に宗教が,そうした他者に対するまっとうかつどうしようもない怒りを取り除いてくれたり,どうしようもない不幸への不満を忘れさせてくれる,として。それはいいことなんだろうか。ごまかされてるのではないのだろうか。ごまかされているとしてもいいことなんだろうか。やっぱりいいことなんかじゃないんじゃないだろうか。 私の中には,それがどういう形であれ,やった行いにはしかるべき報いがあってほしい,という意識が強くあります。被害者が加害者に対して復讐をする,と固定することもないですが,回りまわってでも何でも,そいつが過去にやらかした悪いことについては,いずれそいつに振りかかって,そいつが「ああ,あんなことしたから自分に同じ悪いことが帰ってきたんだ,俺は悪かった」と思って欲しい。それが死刑だとしたら,もうそりゃ仕方ない。この「因果応報」という大枠が保たれた世界であって欲しい,というのが私の理想なのかな,と思います。しかし,このシンプルでも強固な感情が実現する世界の持つ限界点が見えたのが,今回のことだったのかな,と思いました。それに対する答えはまだ私にはないんですが。 |
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