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help リーダーに追加 RSS 横綱って神みたいなもんだと思ってたから

<<   作成日時 : 2007/08/10 16:36   >>

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 私にとっての横綱と言ったら,やっぱりそれは千代の富士。北の潮もそりゃあ強かったですが,ちょうど私の世代は,その全盛だった北の潮に対して千代の富士が立ち向かっていくという格好になっていて,小学生の私は千代の富士と北の潮の優勝決定戦をそりゃあ固唾を呑んで見守ったものです。

 私は相撲道なんてあまり分からないですが,ただ横綱というものの絶対的な高みについてはぼんやりと理解できます。負けるということが原則ありえない存在で,いわば人間としての限界を突破した者に与えられる称号だ,というイメージで捉えているわけです。

 朝青龍,そういうわけでやっぱ引退だと思うのですよね。過去の行いとか,それでも強かったじゃないかとか,まだ26の若者じゃないかとか(26にもなってそういう扱いは逆に失礼だと思うが)。いろいろフォローの意見もあるようですが,私にとっては単に「だって,彼は横綱じゃないじゃないか」というシンプルな一点において,すでに終わっていたりします。

 病気だからまずは療養してそれからだとか,親方にきちんと教わることのできなかったのが原因でとかいろいろありますが,もうそういう自称とはまったく無関係に,現状としての朝青龍は心の病気で通院するか帰国しますかなんていう状態になっているわけですよね。横綱って,そんなんじゃないと思うんです。取組での怪我による病院とかは分かるけど,心の問題で病院行ってますって。そんなの横綱じゃないじゃん。本人の意欲とかそういうの関係ないんじゃないの。横綱は単に勝ち取ったものではなくて,勝ち取った勝利の末に与えられる称号なんじゃないの。

 私にとっての大横綱であるところの千代の富士は,貴ノ花に負けて引退を決意しました。横綱ってそういうことですよ。


 それはともかく,少し弓道をかじっていた人間として,こういう話にはなんとも言えないものを感じます。

 弓道を習ったとき,私の流派では「心・技・体」の教えは間違っているように聞かされました。それは,精神重視に傾きすぎて,心が充実していれば自然と身体もよい動きをする,というようなのはでたらめだ,ということです。技を磨き,身体を鍛えあげ,的中を確実なものとするための切磋琢磨の中で自然と精神も鍛えられ,また何事にも動じない精神を養うことにより,試合や実戦(今はないわけですが)でも恐れることなく,100%の技と体を引き出すことができる。それらがすべて組み合わさっての「心・技・体」だという。

 つまるところこれらの3つは武道においては平等かつ不可分なもので,武道を極めようと思ったらこれらのいずれも欠けてはならない,いずれかが欠けている以上,それは頂点ではない,ということです。

 しかしどうでしょうね。朝青龍はこんなでも横綱にはなってしまっているわけですし,前人未到の連勝記録も作り上げています。弓道で言えば,日本の弓はそりゃあ技術を凝らして作ってありますし,使い手の技もたいそうなものですが,それでも絶対的な性能において洋弓には威力も精度も敵わないでしょう。

 結局,強ければそりゃあ勝つよ,というのが世界標準で,その前には日本の武道だの,その中で培われてきた精神性だの心意気だのなんていうものは,屁のつっぱりにもならんもんですよ,ということなんでしょうかね…今回のような話があると,もうそういう気がしてしまってなんだか寂しくなります。相撲は国技ですし,国技なんだから強さに屈しないで欲しい。どんなに強かろうが,その器ではないというただその一点でばっさりとしてほしい。その結果相撲人気が低迷したってそのまま相撲が廃れたって,そういう態度を貫いて欲しい。興行的にアレなんでとかいった理由でおもねって欲しくないなぁ…。

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